【岡本綾子プロ】女子ゴルフ界のレジェンドをご紹介!波乱万丈のゴルフ人生を歩んできた?

波乱万丈のゴルフ人生を歩んできた女子ゴルフ界のレジェンド 岡本綾子プロについてご紹介していきます。

 

岡本のゴルフのベースとなったのは、ノンプロチームまで打ち込んだソフトボールです。

優勝のご褒美で渡航したハワイでゴルフと巡り合い、プロになってからはパワーヒッターとしてその名をとどろかせます。

ところが故障によってゴルフスタイルの変更を余儀なくされ、見事一変させることに成功します。

 

腰に負担のかからないアヤコスタイルは、シンプルでスクエアなインパクトを主体としたスイングです。

米国での活躍もあり、国内外のゴルファーから羨望のスイングと賞賛されます。

名実ともに世界NO1となった米国女子プロ賞金王は、日本ゴルフ界にとっても輝かしい金字塔を打ち立てたてたレジェンドとして、いまもゴルフ界に貢献しています。

ソフトボールからゴルフの世界へ

岡本綾子(おかもと あやこ) 1951年生まれ 出身地は広島。

中学のときにソフトボールを始めて、四国の今治明徳高での活躍が認められて、1969年大和紡績福井のソフトボール部に入ります。

サウスポーのエースとして、またチームの大黒柱の4番バッターとして活躍、1971年に20歳で出場した国体で優勝し、そのご褒美としてハワイ旅行を楽しむことになり、ここでゴルフとめぐり合うことになります。

 

それまでソフトボール一筋の生活だったこともあり、なんとハワイのゴルフ場では、グリーンの上で日向ぼっこや相撲を取って遊んでいたという黒歴史があるそうです。

日本一を花道に翌年ソフトボールからは引退して、所属チームの親会社で会社員として勤務に就きます。

ところが勤務先の運営しいているゴルフ練習場へと配置転換になり、ここからゴルフへの新たな道が開けていくことになったのです。

日本の岡本から世界のアヤコへ

ソフトボールで培った飛距離は自他共に認めるところですが、わずか1年で会社員を辞めてプロゴルファーを目指していく決断をします。

1973年大阪の池田カンツリー倶楽部に研修生として所属、翌年にはプロテストに見事合格します。

さらに翌年の1975年にはプロ初優勝を果たし、スピード出世をしていくことになります。

 

それ以降も順風満帆に戦績を残し、1981年プロデビューから6年で国内賞金女王の座を射止めます。

同時に念願の米国女子ツアーのライセンスが取得できたことで、翌年からは米国女子ツアーに活躍の場を移していきます。

レジェンドとしてゴルフ殿堂入り

米国ツアーに本格参戦した年の2月、日本人2人目となる米国女子ツアー優勝の快挙を成し遂げます。

優勝争いはプレーオフにまでもつれ、2ホール目をバーディでもぎ取ったことで、「世界のアヤコ」の片鱗を感じることができる内容の試合でした。

 

1987年、参戦からわずか5年で米国女子ツアーの賞金女王の座に着きます。

この快挙は、米国にとっても初めて外国人が女王になった記念すべき年となりました。

2005年には全米プロゴルフ協会がゴルフ功労者に贈る、「世界ゴルフ殿堂」国際投票部門の栄誉を受け、また日本国内においては2014年に日本プロゴルフ殿堂入りをしています。

 

一線を退いてからは解説者や技術指導などゴルフの普及につとめ、また後進の指導も行い、弟子のなかから賞金女王も誕生しています。

岡本綾子の全盛期は3度ある

ここからアスリートととしての岡本綾子の全盛期に注目していきます。

アスリートとして最高潮のときを全盛期とするならば、岡本綾子には3回の全盛期があります。

1つ目はソフトボールで国体優勝成し遂げたとき、2つ目は国内ツアーで賞金女王になたっとき、そして3つ目は米国ツアーで賞金女王になったときです。

 

1つ目のソフトボールは、恐れを知らない20歳までの競技生活のときのものです。

中心選手ではありましたが、日本一という結果はチームが残してきたものなので、個人の戦績ではありません。

ただ、この優勝を契機に20歳の若さで競技生活にピリオドを打って、会社員としての道を選択したことから、ソフトボール選手としての自ら頂点を極めたと得心したことが想像できます。

ソフトボールの経験を活かして2度目の全盛期

2つ目の全盛期は、国内ツアーで賞金女王となった1981年です。

全29試合のうち8試合で勝利を収めての賞金女王であることから、最近の賞金王よりも高い勝率で女王の座を射止めたことになります。

女子プロツアーは創成期から樋口久子1強の時代が続いていましたが、それにストップをかけたのが同学年コンビの大迫たつ子と岡本綾子でした。

この歴史の転換によって女子プロの試合数は激増し、賞金額も上がって多くの選手が活躍していくようになります。

 

ただし、このときを全盛期としたのは、勝利数や獲得賞金額ではなく、賞金王争いをしているときに米国ツアーのライセンスを掴み取ったことにあります。

当時の米国女子ツアーはハードルが高く、2度目の挑戦でクリアしたものです。

ライセンスを取得できた要因は日本人離れした飛距離で、当時の国内女子プロのドライバーの平均飛距離が210ヤードの時代に、岡本の平均飛距離は250ヤードです。

まさに世界への扉は、ソフトボールで培った飛距離のお陰で開いたといって過言ではないでしょう。

怪我の功名から世界のアヤコが生まれる

3つ目の全盛期は、米国女子ツアーで賞金女王を獲った1987年です。

「世界NO1」の称号を手にしたのですから、まさにゴルファーとしての全盛期といえる時期です。

プロである以上、賞金額こそが最大の評価に値する指標となるわけですが、岡本綾子のゴルフ人生を考えると賞金額よりも、ゴルフスタイルの転換に成功した集大成の時期だったと思います。

 

国内で最多勝利数と最多勝金額を手にした翌年、米国ツアーに本格参戦しわけですが、当時の岡本はパワーヒッターとして飛距離を武器に戦っていました。

ところが1985年に重度の腰痛に悩まされ、一時は引退がささやかれるほどの不調となります。

そこで取り組んだのが、腰に負担のかからないスイング改造です。

当時とした独特なスイング理論でしたが、そこに使われたキーワード「スクエア」「シンプル」はいまも多くのゴルファーが使っています。

結果的にスイング改造は成功し、新たに生まれ変わって「世界のアヤコ」と国内外からリスペクトされる存在となっていくわけです

なぜ強かったのか

プレッシャーに強いのはソフトボールのお陰

ソフトボールの主軸として国体で日本一となった岡本綾子は、バットをクラブに替えて国内NO1の座を手にします。

1975年プロ初優勝を飾ってからは、試合のたびに上手くなっていくのが分かるほどの成長を遂げていきます。

 

その成長を誰しも認めることになったのが、1979年日本女子プロゴルフ選手権です。

同学年の大迫たつ子とデッドヒートを繰り広げ、通算17アンダーという異次元のスコアで試合を制します。

試合後に勝因を聞かれた岡本は、「ソフトボールで1点差の重みを知っているのでプレシャーの心配はなかった」という趣旨のコメントを残しています。

 

ゴルフとは違うステージですが、すでに日本一を経験してきた自信と誇りに裏打ちされた心の強さに秘密があったようです。

世界のアヤコの強さの秘訣は我慢

すでに「世界のアヤコ」として米国で活躍していた岡本綾子は、1985年重度の腰痛に悩まされ「引退の危機」に陥ります。

日本で賞金女王となり、米国ツアーでも優勝を経験したのですから、それまでの日本人の気質からすると「ボロボロになってまで選手を続ける」選択肢はなかったはずです。

 

ところが、それまで築き上げてきたゴルフをすべて捨てて、腰に負担のかからない新しいスイングの開発に取り組みます。

しかも最短ルートで完成させて、表舞台に返咲くことに成功します。

振り返ればソフトボール日本一での引退も、女子プロ国内日本一の翌年の渡米も、実績に執着せず物事に固執せず、新しいものへのチャレンジをいとわず前に進んできた結果です。

 

そんな岡本が42歳で初めて日本女子オープンを制したときのコメントは、「我慢して我慢して我慢しているうちに栄光が手に届く」。

我慢強さこそが世界のアヤコの強さの秘訣だったのではないでしょうか。

伝説

女子でもこんなすごいスコアが出るの?

勝者は敗者に向けて「好敵手のお陰で成長できた」と賛辞を贈るのが、一流選手としての矜持といえますが、プロの世界では「自分で克服した」と自らを褒めることが多いようです。

 

1979年、日本女子プロゴルフ選手権で岡本綾子は大迫たつ子と死闘を繰り広げます。

初日2人はともに4アンダー、2日目は9アンダー、2日間のトータル13アンダーは新記録でしたが、そもそも当時の女子ツアーはパープレーが勝敗ラインなる時代です。

このとき女王樋口久子に言わしめたのが、「女子でもこんなすごいスコアが出るの?」でした。

 

ちなみに試合の結果は3日間トータルで、2人とも当時の世界記録の17アンダー、プレーオフを制した岡本は、「気持ちいいですね、最高に!」と素直に喜びを表していました。

何でそんなことをいうんですか!

1984年の米国女子ツアーの賞金女王争いは、日本の岡本、米国のキング、オーストラリアのスティーブンソンの3人に絞られていました。

米国女子ツアーの会場が岡本の地元広島だったこともあり、ギャラリーもマスコミも異様な盛り上がりのなか試合は進んでいきます。

ところが明暗を分けるホールでスティーブンソンのパターが外れたとき、ギャラリーが「ナイスボギー!」と掛け声を発してしまいます。

 

聞こえた岡本は目に涙を浮かべて「何でそんなことを言うんですか!」と声の主に発します。

いまの日本では考えられない観戦マナーですが、40年近く前のこととは言えプロゴルファーがギャラリーを叱る光景も、ある意味で伝説のひとつと言えるかもしれません。

 

ちなみに岡本は、このあとグリーン上で号泣して、しばしプレイは中断します。結果としてこのシーズンの賞金ライング3位で終わり、1987年に賞金女王となります。

スイングやプレイスタイルの特徴

インパクトでフェースがスクエアであること

岡本綾子が開発したシンプルでスクエアなスイングは、ヘッドの重たいパーシモンと軽量化されていないスチールシャフトを使用していた時代のものです。

現在の軽量化されたクラブでそのままスイングを真似ると打ち出したボールの軌道は不安定になるので、応用する場合には多少の修正が必要であることを最初にお伝えしておきます。

 

まずはアヤコスタイルの基本となる「スクエア」についてです。

インパクトのとき、飛球線に対してフェース面が垂直であることをスクエアと言います。

そのためにはグリップを左腿に寄せたハンドファーストで構えることで、フェースの開きを抑える役目をします。

今では一般的な構え方ですが、当時として画期的な考え方でアヤコスタイルの特徴といえます。

 

テークバックを始動するとき、左側にあるグリップは、身体の捻転とともに移動するため、スムーズに引くことができるようになるのも特徴のひとつです。

さらに身体の軸を中心に、左肩を回しながら右足に体重を移動させます。このとき「右の壁」を意識して、体重を外側に逃がさないようにすることも特徴のひとつです。

現代ではスライスの可能性が高い?

アヤコスタイルのスイングは捻転を重視しているので、岡本自身は「左のわき腹が痛いと感じるくらい捻る」ことを薦めています。

捻転しながら体重を移動することで、腰痛の不安はなくなるそうです。

 

ただ岡本のテークバックには重大な欠点があります。

当時の重いクラブでは問題になりませんが、現在の軽量シャフトでクロスシャフトになると方向性にバラつきがでます。

トップの位置では飛球線とシャフトが平行にするのが基本ですが、岡本のトップの形は飛球線とシャフトがクロスするので、そのままダウンスイングをするとフェースが開いてスライスします。

 

フックに悩みを持つ岡本にとっては、重いヘッドとクロスシャフトのお陰でスクエアを保つことができたのかもしれません。

指導者として

賞金女王にまで上り詰めた弟子

現役時代は群れを嫌う一匹狼のような存在だったわけですが、定期的に日本に戻るようになってからは活動の幅を広げゴルフ界に貢献してきました。

その延長線上に可能性のある後輩への指導があったようで、「門下生」として女子プロの表純子、青山加織、服部真夕、森田理香子、若林舞衣子を定期的に指導しています。

なかでも森田は、2013年に23歳の若さで国内賞金女王になった出世頭となりました。

教え子がもたらした特別な賞

弟子を持ったことから、「綾子の教え」はメディアでも採り上げられるようになり、指導者岡本綾子としても注目を集めるようになります。

日本女子プロ協会からは、2012年に門下生の服部真夕、森田理香子、若林舞衣子が活躍したことから45周年アワードで表彰を受け、それに伴い岡本も指導者として特別賞を受賞しています。

岡本はこの受賞に対して、「望んでいただける賞ではない、教え子たちには感謝したい」という趣旨のコメントを残しています。

世界中のゴルファーに共有されているスクエアなインパクト

ソフトボールからゴルフに転向してきたときは、いきなり「米国で活躍したい」と無邪気に話す女の子でしたが、プロ界とマスコミの洗礼を浴びてからは必要以上のことを語らないプロになります。

一線から離れてからは解説者としても活躍されていて、毒気のあるコメントを吐いても、レジェンドに対して昔のように咎める者はいなくなったようです。

 

岡本は竹を割ったような性格で、目標に向かっての努力を惜しまず、達成まで不転退の覚悟をもって取り組む、まさにアスリートの鏡のような人です。

腰痛を契機に生み出したシンプルでスクエアなインパクトは、いまも世界中のゴルファーに共有されている素晴らしいスイング法だと思います。

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