【林由郎プロ】12才でキャディ/メジャー6勝! 5人の賞金王を育てたプロゴルファーの極意とは?

家計を助けるために12才でキャディになり、16才でプロ試験に合格。戦後昭和のゴルフ界に第一次ゴルフブームを巻き起こしたプロゴルファー林由郎を知っていますか?

 

日本プロと日本オープンで6勝をあげ、海外でも活躍した林由郎は、青木功やジャンボ尾崎など5人の賞金王を育てています。

ユニークで教え上手な林由郎にはエピソードもいっぱい。

記事では、林由郎の経歴やエピソードを紹介して、我孫子の名伯楽といわれた「オヤジさん」の極意に迫ります。

林由郎の少年時代

ここではプロゴルファーになるまでの少年・林由郎の軌跡をたどってみます。

12才の小学生がキャディに応募

林由郎(よしろう)は1922年(大正11年)1月27日に千葉県我孫子市の農家で生まれました。

家は貧しく、一家の暮らしを助けようとキャディに応募したのがゴルフを始めるきっかけとなります。

 

小学6年生の由郎は、家からわずか500mのところにある我孫子ゴルフ俱楽部がキャディを募集していることを聞きつけました。

卒業間近の日曜日、由郎はゴルフ場に飛び込んでキャディに使って欲しいと頼み込みます。

 

日曜日で客が混み、キャディが足りなくて困っていたキャディマスターは由郎を試しに使ってみました。

何をしていいのか分からない由郎ですが、お客に教えられて、キャディの仕事は打ったボールをみつけることと、言われた番手のクラブをすぐに渡すことだと知ります。

 

飲み込みの早い少年に驚いたキャディマスターは、次の日曜日にもやって来た由郎を正規のキャディとして雇うことにします。

昭和9年4月、12才のハウスキャディ林由郎が誕生した瞬間でした。

フライパン返しでバンカーショットの極意を知る!

由郎はゴルファーの構えから球の行方を予測して、薄暗い夕方でもボールをみつけられるようになり、常連のメンバーのお気に入りになります。

ゴルフに興味を抱き始めた由郎は樫の木の棒でクラブを作り、素振りの練習を開始しました。

 

ある日、お腹の空いた由郎のためにいつも5銭でウナギのたれの入った旨いご飯を作ってくれるコックが、フライパンでオムレツをひっくり返す見事な技を見せてくれました。

そのとき、コックの手首の使い方が、バンカーの上手な客の手首の使い方と似ていることに気がつきます。

 

上手なメンバーのバンカーショットは“当てて、引く”タイミングが絶妙です。

アゴの高い我孫子ゴルフでは必殺の技でした。コックに頼んでフライパン返しを会得した林由郎は、こっそりと練習に励み、バンカーショットの名手に成長します。

 

このスイングは、“林由郎のバンカーショット”でネット検索すれば、本人のビデオ動画をみることができます。ぜひご覧ください。

登竜門の月例会に特別参加・16才のプロ誕生

現在では日本プロゴルフ協会のプロテストに合格すれば男子プロの資格ができます。

当時は所属するゴルフクラブの推薦でプロの月例会に特別に参加させてもらい、スコアが合格基準に達して始めて日本ゴルフ協会にプロとして登録されました。

 

キャディの仕事の始まる前に200発の練習を許された由郎は、古いクラブをメンバーからもらって、ヘッドプロ(山本増二郎)の技を手本にして練習に励みます。

ゴルフ場がキャディへの感謝を込めて行うキャディトーナメントで2連勝をした由郎少年の頭の中で、プロゴルファーになる夢が芽生えていきました。

 

昭和13年のある日、16才になった由郎は支配人と山本ヘッドプロから我孫子ゴルフ俱楽部で行われる関東プロの月例会に出てみろと言われます。

隅々まで知り尽くしたホームコースでのラウンドという幸運にも恵まれた由郎は、1日で行われた2ラウンドを78と74の好成績で回り、プロとして認定されました。

 

16才のプロゴルファー林由郎が誕生しました。その夜、手に入れた賞金20円を両親に渡して、「これで雨漏りの屋根を直そうよ」と報告したとされています。

林由郎プロ・戦後の軌跡

キャディを卒業して、我孫子ゴルフ俱楽部の所属プロとなった林由郎ですが、第二次世界大戦争が始まり、招集されて近衛師団に入隊することになります。

 

終戦後、無事復員した由郎を待っていたのは我孫子ゴルフ俱楽部の荒れ果てた姿でした。

由郎は仲間と共にコースの修復に取りかかります。

関東プロで初優勝も翌年のエキジビジョンで恥の“大空振り事件”

昭和23年8月、戦後始めて行われた競技会である関東プロ選手権が、東京ゴルフ俱楽部で開催され、林由郎がプロとして初優勝を果たしました。

26才の由郎は一躍有名になり、大きな自信を手に入れます。

 

翌24年6月、兵庫県の宝塚カントリー俱楽部で東西プロ4人によるエキジビジョンマッチが行われました。

関東チームは中村寅吉と林由郎のペア、関西チームが宮本留吉と戸田藤一郎のペア。新人の由郎にとって3人とも大先輩にあたります。

 

林由郎は、12番ロングホールの第2打でブラッシー(2番ウッド)を取り出し、得意のフックボールで2オンを狙います。

ボールのライは左足下がりのゆるやかなダウンヒル。意気込んだ結果はボールの手前を叩いてダフり、空振りでした。

 

ギャラリーは大爆笑。相手チームの大先輩、戸田藤一郎からも「プロがみっともねー」と怒られてしまいます。

試合の後、林由郎は戸田先輩から、状況次第でフックボールとスライスボールを打ち分ける事の必要性を説かれ、打ち方のコツまで教えてもらうのでした。

 

“大空振り事件”の後、フックボールしか打てない林由郎は、戸田先輩のようにボールを自由自在に曲げる技術を身に付けようと、日夜、猛練習に励みます。

日本プロ、日本オープンを3連覇して日本一に!

大空振り事件のわずか2か月後、戦後初の日本プロゴルフ選手権が我孫子ゴルフ俱楽部で開催されました。

ここで、地元の利を生かした林由郎が優勝して“プロゴルファー日本一”の名誉を手に入れます。

 

このとき、「林んところの倅がついに日本一になった」との伝言が実家の近所の家々を駆け巡ったとか。

ボールを思いどおりに曲げる技術を身につけた林プロは、翌年、日本プロと日本オープンを連覇するという快挙を成し遂げます。

 

昭和25年10月に待望の日本オープンが復活して我孫子ゴルフで開催されました。

九州の島村祐正と優勝争いをした林由郎は、最終日に17番ミドルホールで第2打をバンカーに放り込んでピンチを迎えます。

 

ここで勝負の1打!と、得意のフライパン返しでボールをピンそばに付け、パーを拾い、優勝を確信します。

林由郎はこのときのバンカーショットを、「ゴルフ人生でいちばん思い出に残るショットだった」と後日談で話しています。

 

日本オープンの勢いは続き、2日後に始まった日本プロではマッチプレーの二回戦で先輩の中村寅吉を破って決勝に進出。

決勝では、小野光一プロに大差を付けて前年に引き続いての日本プロ連覇を果たしました。

 

ホームコース・我孫子ゴルフ俱楽部での開催という幸運にも恵まれ、林由郎はメジャー3連覇という偉業を達成して、プロゴルファーの頂点に立ったのです。

林由郎プロの主な成績/海外も

ここでは林由郎プロのおもな成績をまとめました。

当時は日本プロ、日本オープン、関東プロ、関東オープンの4競技のみが挙行されています。

少ない試合数の中で、林プロは、日本プロと日本オープンを6回制覇、通算優勝11回という飛び抜けた成績を残しました。

 

また、企業の冠トーナメントである読売プロ選手権が1952年にスタートして、林由郎が優勝。高額賞金30万円を獲得しています。

 

日本プロゴルフ選手権 優勝4回

1949年 我孫子ゴルフ俱楽部

1950年 我孫子ゴルフ俱楽部

1956年 名古屋ゴルフ俱楽部 和合コース

1961年 古賀ゴルフクラブ

 

日本オープン 優勝2回

1950年 我孫子ゴルフ俱楽部

1954年 東京ゴルフ俱楽部

 

関東プロ選手権 優勝2回

1948年 1953年

 

関東オープン 優勝2回

1955年 1960年

 

読売プロ選手権 優勝1回

1952年 第一回大会

 

(海外)

第4回 カナダカップ

1956年 団体4位タイ

 

海外遠征では、1956年のカナダカップ(世界選手権)で、石井迪夫(みちお)と組んだ日本チームが団体4位タイと健闘。

世界に日本の実力を示しました。

翌1957年の日本でのカナダカップ開催に道を付け、中村寅吉と小野光一組の団体優勝につながっています。

林由郎が育てた賞金王たち

林由郎は5人の賞金王を育てています。

青木功、尾崎将司、尾崎直道、飯合肇、福嶋晃子の5人です。

そのほかにも林プロは多くのプロを育てています。「我孫子一門」とか「林一門」と呼ばれる選手達です。

 

林プロ本人は「そんな会は存在しない。みんなが『父ちゃんみてくれ』と言ってくるので教えているだけだ」と言っています。

青木功もキャディからスタート

林由郎の実家と青木功の家はすぐ近くにあり、林プロの活躍を聞いていた青木は、我孫子中学を卒業した後、プロを目指して東京都民ゴルフ場のキャディになっていました。

 

たまたま、我孫子ゴルフから東京都民ゴルフに移籍した林プロが、フックボールばかり打っている青木と知り合うようになります。

昭和39年プロ試験に合格した青木選手ですが、成績がもう一つで、ある日、林プロに泣きついてきました。

 

「父ちゃん、スライスが打てるようになりたい、教えてくれ」

林プロはそのとき、大空振りをしたときの戸田先輩の言葉を思い出して、スライスの打ち方を教えたと言っています。

 

それ以降青木選手の得意技はフェードボール(スライス系)と「べた足打法」に変わって、優勝を重ね、プロゴルフツアーの永久シード保持者となります。

 

昭和58年2月、米PGAツアーのハワイアンオープンでの出来事です。青木選手は優勝争いに加わり、最終日、最終ロングホールでラフからの第3打をウエッジで直接ホールにカップインしました。

 

米PGAツアーで日本選手が始めて、劇的な逆転優勝を果たした瞬間でした。ワイアラエ・カントリークラブの現場で見ていた師匠の林由郎は、喜びのあまり得意のストトン節で踊り出したとか。

ジャンボ尾崎の野球式フックボール

高校野球で優勝した尾崎将司は、思わぬ故障でプロ野球を諦めてプロゴルファーになる事に決め、林由郎に教えを請います。

野球で鍛えた尾崎将司はフックボールを連発しました。

由郎師匠はジャンボに大空振り事件の話をして、フックグリップを直させます。

 

猛練習の末、ジャンボは昭和45年に初めてのプロテストでトップ合格。

大物の片鱗を見せて師匠を驚かせます。

翌年には日本プロと日本シリーズのビッグタイトルを連覇します。

 

「父ちゃん、もうフックはどうしても必要なときしか打たないよ」、師匠にそう言ったジャンボの一言が、その後のツアー100勝につながりました。

 

尾崎将司はジャンボ軍団と呼ばれる多くの男子プロを育てました。

また、原英莉花(日本女子オープンほか)、笹生優花(全売女子オープン)や西郷真央などの若い女子プロも門下生として教えています。

林由郎の教え方・語録から

林由郎は母親に連れてこられた福嶋晃子を10才から手ほどき。

素直な少女に将来の大物を予感しています。

また賞金王になった尾崎直道や、飯合肇も教えています。

ここでは、林師匠の教え方を語録から3つ、ピックアップしてみました。

  1. ゴルフは理屈よりコツだ
  2. 原因はここだよ。これはやるなよ。これを覚えて帰れよ! といって自分でやってみせる
  3. 私はただ種まきをやっている、その種が本人達の努力で実ってくる。

師匠への惜別の言葉

89才で逝去された林由郎氏に贈った「一番弟子・青木功氏の惜別の言葉」を引用して記事をおわります。

オヤジに会わなかったら今のオレはなかった
林さんがゴルフ界にまいた種を育てるのも私たちの役目
父ちゃんがいなくなってすごく寂しくなった
天国の1番ティで待っていてくれ

引用:GDO「AONが福嶋が…師匠の林由郎に惜別の情」

参考図書:林由郎著「自由自在のゴルフ人生」(2000年5月 講談社)

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